断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

3つの展示

6月一杯は3つの展示の準備に忙殺された。

1つめは、国立科学博物館の特別展「昆虫」で、監修者として5つのコーナーを担当した。

美しい昆虫

すごい形の昆虫

Gの部屋

好蟻性・好白蟻性昆虫

マダガスカル調査

www.konchuten.jp

ーーー

次に志摩歴史資料館で毎年担当している昆虫展示として、「昆虫にズームイン」

深度合成で昆虫の体表面を撮影して、多数の写真を標本とともに展示した。

志摩歴史資料館 夏季企画展「昆虫にズームイン!! 顕微鏡レンズで見る体表面構造」 - 糸島市

ーーー

そして、スカイツリーで行われる「大昆虫展」

ここではきらめく甲虫の標本を展示している。

www.daikontyu-ten.jp

ダサイとカッコ悪い

某テレビ番組の密着取材を受けたとき、私が何でも言えるようにと、毎晩宴会が開かれた。私は警戒しつつ、まずは相手のことを知ろうと、遠慮なく質問する。そして私も、酒の酔いも手伝って、自分のことを話さざるをえなくなる。結局、カメラマンのSさんとディレクターのKさんの三人で、お互いの胸の奥にある大切な経験や考えの多くをさらけ出すことになった。大人になってからそのような出会いはなかなかないはずで、他人、しかも二人もの人生の一端を知ることができたのは、今でも人生の宝物になっている。やはり他人の人生をほど興味深いものはない。

その際、カメラマンのSさんから聞いた言葉で、今でも胸に焼き付いているものがある。それは、「カッコ悪くてもいいから、ダサイ奴にはなりたくない」である。50過ぎのおじさんが卑猥な冗談の合間に何度も口に出したのだが、これを言うときだけは真顔になるのを私は見逃さなかった。「カッコ悪い」も「ダサイ」も字面ではほとんど同義で、そもそも他人の言葉の意味を完全に捉えるのは難しいものだが、あまりにも長く話したので、私にはよくわかり、共感できるものだった。

ここで言う「カッコ悪い」とは、なにかに失敗したり自分の弱さがふと出てしまうようなことである。悪あがきしたり、感情的になってしまったり、ついついやってしまう。一方、「ダサイ」とは、虚勢をはったり、謝らなかったり、ケチケチしたり、陰湿なことをしたり、つまらない正論を吐くことである。そこまでは仕方ないにしても、問題はそれらを平気でやってしまう神経である。とくにうっかり出やすいのは、嫉妬や羨望に起因した陰湿な感情である。これは恥として意識的に押し殺さないといけない。実はこの恥とはとても大切な感情の一つで、人によって規準はさまざまだが、この辺の感覚の重なりが、仲良くなれる人とそうでない人を分けるのではないかとも思う。

私の場合、「カッコ悪い」はしょっちゅうで、そのたびに恥ずかい思いをしている。そして悪いことに、たまに「ダサイ」をしそうになり、ヒヤリとすることもある。結果的には「ダサイ」をしてしまうのも人間の弱さになるけれど、してしまったとき、しそうになったときに、それを認識しつつ、そんな自分と戦える大人になりたいものである。私も40代半ばに差し掛かるが、どうせ大人になんてなれないのだから、大人になろうという気持ちは忘れないようにしたい。そしてダサイ大人にはなりたくない。

学名の命名権とイベント企画

今年の夏、国立科学博物館で、初の昆虫展が行われる。意外かもしれないが、初である。展示の題は、そのまま『昆虫』。どういう経緯で決まったのかは聞いていないし、なんのヒネリもないように思えるかもしれないが、「昆虫のすべてをみせてやろう」「うちがほんとの元祖だ」「うちが本気だすとこわいぜ」みたいな、気概が感じられる。ような気がする。

それで、私もこの展示の監修者に加わることとなった。主催の読売新聞とフジテレビに昆虫展の経験がなく、相談を受けたのがきっかけで、もともとお手伝いする予定だったこともあったし、結局いろいろなコーナーを担当することになったので、成り行きで監修者にご指名いただいた。この仕事に時間を割くための職場での立場もある。つまり正式に監修者となっていれば堂々と動きやすいということである。これまでの約10年、手探りで独自の昆虫展示を続けてきたが、その経験が人様の役に立つとは思わなかった。

それはさておき、今回の目玉企画に、来場者から抽選で、新種のハチの学名(種小名)に自分あるいは自分の好きな人の名前をつけるというものがある。つまり鈴木花子さんだったら、Xxxxus(属名)suzukiaeあるいはhanakoaeとなるわけである。現在、昆虫学教室の三田敏治さんが研究中で、良いタイミングで論文を出すことになっている。

実は今年の3月のマダガスカル調査は、この企画の関連で行った。企画のための新種の虫を探そうというものである。本当は私の専門のハネカクシあたりで新種を見つけようと思ったのだが、それはふるわず、同行の三田さんの専門のセイボウで顕著な新種が見つかり、結局それをこの企画に使わせていただくこととなった。

この企画の趣旨は、主催者側としては、展示を盛り上げようというイベントの一環である。それは言うまでもないだろう。いっぽう、こちら(研究者)としては、これをきっかけに多くの人が展示を訪れ、昆虫に興味を持ってもらえればということと、さらに滅多に正確な報道がなされない学名の命名について知っていただく、ひいては分類学というものについて学んでいただければという思いがあり、双方の同意のもとに進められることとなった。生きものが好きな人にとってみれば、学名に自分の名前が残るなんて、一生の思い出に残る夢のある企画だと思う。

実はこういった学名の「命名権」のやりとりについては、一見斬新に思えるかもしれないが、欧米では珍しくなくなっている。それが有償であれば、その資金をもとに、研究を行ったり、生息域の保全を進めたりしていることも多い。しかし、おそらくだが、日本ではこれまでにそのような事例はなかった。

初めてのことは必ず批判を受ける。予想はしていたが、この企画にも反対の声があるようだ。当初はわれわれもそのような批判を恐れて、この企画への参加に逡巡したが、幸い、私の周囲の研究者は好意的な意見ばかりで、欧米での実例を知った上で、分類学の生き残る選択肢として必要という声も少なくなかった。実際のところ、反対の声の多くは「命名を景品みたいに使うべきではない」といった感情的なもので、そこに合理的な理由はまったく見当たらない。(われわれがこの企画を進めるにあたって、本当になにか問題があるのであれば、ぜひご教示賜りたい。)

動物命名規約(分類群名に関する法律+紳士協定みたいなもの)というがあって、それに反するのではないかとの指摘もあった。今回の件の是非の問題からは逸れるが、分類学的貢献のない人に命名してはならないという内容は命名規約にはない。また、家族や恋人の名前を学名に使って無名雑誌に発表している研究者も非常に多い。それが悪いとは言わないが、そんなことよりも、こういう機会を利用して、多くの人に昆虫のことや分類学のことを知ってもらった方が、ずっとずっと有意義かつ「公的」ではないかとも思う。

見事な未記載種を見つけ、研究してくださっている三田さんには感謝したい。分類学では、ある種を未記載(まだ名前が付いていない)と判定するのが研究の一番の難所で、一番の価値あるところである。

 —-

その後、意見があり、学名にはその種の特徴や発見地名、発見者名を付けるべきというものがあった。たしかにそれが理想的であり、多くの研究者が原則そうしていることが多い。しかし、この地球に何百万も未記載種がいて、命名される前に絶滅しているものもたくさんいるなか、こういう方法で少しでも多くの人に虫に目を向けもらうのもいいと思う。こんな小さくてきれいなハチがいること自体、今回初めて知る人も多いはず。

また、写真公表で、先んじて記載されてしまう危険性の指摘もあった。これももっともな部分があるが、今回の件では現実性に欠く。新種のシーラカンスや恐竜じゃあるまいし、恥をかいてまで小さなハチでわざわざそんなことをする研究者がいるだろうか。ハチの記載できる能力のある人なら、各地の博物館にゴマンとある未記載種を扱うほうがよほど簡単であろう。

www.konchuten.jp

忙しいとバカになる

ここ数カ月、本当に忙しい。「忙しいという字は心を亡くす」とはありきたりの言い方だが、事実としては言い当てている。毎日慌ただしく仕事を片付ける。頭を使う場面もあるが、多くは創造性と無縁である。経験上、こういった忙しさが続くと、なにも思いつかなくなる。とくに文章が書けなくなる。何かを思いつくにはボケっーと何かとりとめもないことを考える時間が大切である。「ネガティブなことを考えるのは暇人である」などと言う意見も聞くが、ネガティブでもポジティブでもなんでもいい。とりとめもない考え事というのは、パソコンのディスクのクリーンアップみたいなもので、新しくできた余地に初めて新しい考えを創り出すことができるものだと思う。そんなとき、釣りだとか畑仕事は、ボーッとしながら考え事をする良い機会になる。締め切りがあっても、結局は生産性につながるのだから、そういうことに時間を割くのは大事なことだ。また、寝るのも大事。寝る前にボーッと考え事をして、朝になるとまとまっていることも多い。私は8時間くらい眠らないとダメなのだが、だからこそ睡眠不足のときの非生産性は身にしみて感じる。社会全体に忙しくなり、ろくに眠れていない人もたくさんいる。そうなると、社会全体の創造性はどうなるのかと心配になる。

秘密の暴力装置

殺したいだとか、死にたいだとか、負の意思を持った時点で、実行したも同じだという宗教的な考えがある。そういう考えには、「意思を実行するか否かは些細な差である」という前提がある。しかし、「実行するとしないでは天と地の差だ」という考え方もあり、わたしもそう思うし、やっぱりどう考えてもそうだ。だからどんな不穏なことも、思うだけなら自由なはずだ。だがやはり、思い続けていると、「ボタンを押すだけ」みたいな、なんらかのお膳立てがあると、思っていない人よりは容易に実行してしまうかもしれず、やっぱり思うというのもなんらかの潜在的危険性をはらんでいるのかもしれない。さてこれからの梅雨の時期、わたしが一番殺意を覚えるのは、傘を水平に持って歩いている人である。特にその人の後方に傘の先端部が来ていると、怖くて後ろを歩けない。実はわたしは先端恐怖症で、かなり遠くにそういう人を認めるだけで、ひーっ!となってしまう。この腹立ちは先端恐怖症の人にしかわからないし、子供が歩いていたら危ないだろうという怒りも覚える。もし私が無法者なら、どうするだろうかと想像する。まずは日本刀を持ち歩き、傘を水平に持っている人を探す。そして見つけるやいなや、その傘を真っ二つにしたい。あるいはヤクザみたいに肩で風を切って歩き、傘を取り上げて、持ち方が違うんだよと声を荒げて注意したい。結局はそんなことをできるはずもなく、想像だけをして怒りを和らげるほかない。

ネコの魅力

ネコは人気の動物だ。なんてことはわざわざ書く必要もあるまい。なんでネコがかわいいのか考えてみると、あの真顔がいいのだと思う。イヌよりも顔に喜怒哀楽が少なく、基本的に真顔をしている。真顔でドジをしたり、びっくりするくらいに自分勝手にふるまうのがいいのだ。それで思ったのだが、文章でも同じことである。文章で面白いことを書くとき、決して「笑った文章」を書いてはならない。笑った文章とは、やたらと抑揚が大きく、雰囲気で笑わせようとする文章である。読むほうはそういう文章に興ざめしてしまうものだ。真顔のネコのように、淡々とおかしなことを書くのが面白い。現在、研究者の仕事として大切なものに、研究成果の普及というものがあるのだが、残念なことにたいていの研究者の文章はわかりにくいし、面白くない。無理に面白く書こうとして、難しい内容のままの笑った文章も少なくない。大事なのは内容であり、興ざめ以下である。また、研究者の自尊心を保ちすぎ、一切の矛盾がないように、詰め込み過ぎて理解困難な文章もかなりある。そういうのはネコを通り過ぎて猛獣のトラやライオンになっているともいえる。なかにはフクロミツスイやキノボリイワダヌキやヤマバクみたいなよくわからない珍獣みたいな文章を書く人がいて、それはそれで面白いのだが、共感できる人はトキより少ないだろう。分かりやすい文章は、多少の情報不足に目をつぶって難しい文章をけずり、いかにわかりやすく伝えたいところだけを残すかである。ネコのような文章。私も練習中だが、なんといっても読む人の視点に立つのが一番の近道である。しかしそれがなんとも難しいのだ。

中毒

駅から家に向かう途中にコンビニがあって、帰りに意味もなく立ち寄ってしまう自分に困っている。そして意味もなくお菓子を買って、意味もなく夜中に食べて、意味なく太ってきている。このように、コンビニに立ち寄って何かを意味もなく買ってしまうのは、人生における時間の浪費であり無駄な出費であり余計なカロリー摂取であることは自覚しており、毎晩、軽い後悔を覚えている。「中毒」という病態の特性として、必ず「後悔」が伴うというが、そういう意味で私のコンビニでの買い物は中毒の一種といえるかもしれない。幸い、いまのところ、コンビニでお菓子を買うためにサラ金で借金を重ねたりはしていない。もちろん、コンビニにまつわる私の行動のすべてに意味がないわけではなくて、立ち寄ることに何らかの意味を見出す場合もある。それは出勤時に必ず買うアイスコーヒーである。家から駅までは起伏があって、暑い日だと駅に着くまでに体が熱くなる。だから、電車に乗る前にアイスコーヒーを買って、駅のホームでほっと一息つき、一日の仕事に備えるのである。これに関しては後悔しない。汗をかきながら歩きつつ、強い意志を持ってコンビニに突撃しているのだ。鼻息荒く、心の中で「アイスコーヒー!アイスコーヒー!!」と連呼しながら、コンビニの冷凍庫へスタスタと歩く。手に持った氷のように涼しげな顔でささっとレジを済ませるが、頭の中は煮えたぎったアイスコーヒーでいっぱいである。慌しくペリっと蓋をはずしてアイスコーヒーのボタンを押す。ジョボジョボジョボ。間髪入れずに一口。期待したほど美味しいものではないと昨日も思ったことを思い出す。だが、後悔はしない。だから中毒ではない。胃を伝わる冷たい流れと喉ごしのために飲むのだ。いや、中毒ではない。中毒ではないから後悔してはならないのだ。

うなぎ文

5月12日から20日まで、タイに行ってきた。学生の調査に同行するためである。4月から修士課程に新しく入った今田君と井上君の2人は初めての海外調査で、戸惑いつつも楽しい旅行となったようだ。昆虫研究の醍醐味は昆虫採集で、とくに海外での採集はワクワクするものである。ちなみに、今田君はヒゲナガゾウムシで、井上君はアリヅカムシである。そして同行した博士課程2年の柿添君はマグソコガネである。ところでこう書くと、今田君が人間ではなくてあたかもヒゲナガゾウムシそのものであるかのように思えてしまうが、もちろんれっきとした人間である。研究者、とくに分類学者は、自分や他人の専門の生物を、自分の一番の属性と意識する。したがって、自己紹介のときには「ヒゲナガゾウムシの今田です」などと胸を張って言うことも珍しくない。私もたまに「好蟻性昆虫の丸山」などと自分で言うことがある。「うなぎ文」という言葉がある。食事の注文の際に「私はうなぎ」などとよく言うが、これを英語に訳すと「I am an eel」となり、日本語独特の特異な表現とされている。対象生物が研究者個人そのものを指すような表現も、一種のうなぎ文と言えるだろう。2人が早く胸を張って専門を名乗れる日が来ることを楽しみにしたい。

f:id:dantyutei:20180527165649p:plain

ひとの間

福岡に住んで10年が経つが、この街をとても気に入っている。食べ物、人柄、気候、たくさんある。しかし、気に入っているだけにこうやって良い部分をあげてもキリがないので、あえて嫌な点をあげてみる。それは地下鉄の乗り方である。かなり混んだ車内であっても、奥へと進む人は少なく、みんな入り口のほうに立っている。かといって降りようとしても、一時的にどいたり、降りたりしてくれない。そして、空いている席に座ろうとしても、七人掛けの席にバラバラと五人くらいが座っていて、中途半端に隙間が空いているだけで、座るに座れない。どう見ても混んでいるのに、座席に荷物を置いて悠々と座っている人もたまにいて、思わず呆れてしまう。東京でそんなことがあったら、怒る人がいるかもしれない。あるいは舌打ちして席を空けさせる陰険な人もいるだろう。しかし不思議と福岡では誰も気にしない。少なくとも何も言わない人が多い。ハンドバッグを置いている人も、混んでいることに気づいたらヨッコラショと席を詰めて、なんとなく誰かが座る。要するに人びとの間に鷹揚な時間が流れているのだ。福岡は人柄がいいと言ったが、考えてみれば地下鉄の乗り方も、そんな田舎の良い部分の表れなのかもしれない。東京出身者としては、それでもたまにイライラとしてしまうのだが。

CombineZPとZereneの比較(メモ)

ここ数カ月は展示や本の関係で昆虫体表面の微細構造の撮影に凝りに凝った。そこで重要になるのが深度合成のソフトである。

これまでCombineZPを使っていたが、Zerene Stackerが高評とのことで、導入してみた。Zerene Stackerは毛の重なりが上手く合成できるうえ、ソフト上でレタッチ(元写真の良いところを拾える)ができるのが何よりの利点である。

ただ、Zereneも完璧ではなく、レタッチ不要な画像の仕上がりにおいては、CombineZPのほうが優秀な点も多い。とくに反射の大きな甲虫やチョウの鱗粉などは、圧倒的にCombineZPに軍配が上がる。

以下、カタゾウムシの体表面で比較してみた。

(実際にやってみた人向きの内容。)

 

f:id:dantyutei:20180323180922j:plain

CombineZP:わずかに鱗毛の反射を拾っているが、鱗毛の間の微細彫刻もうまく合成されており、メリハリがある。

--

f:id:dantyutei:20180323180438j:plain

Zerene PMax:どう設定しても使いものにならない。鱗毛の間が完全にボケており、合成もされていない。

--

f:id:dantyutei:20180323180439j:plain

Zerene DMapのデフォルト:ご覧のとおり、全然ダメ。

--

f:id:dantyutei:20180329163751j:plain

Zerene DMapで、設定のEstimation Radiusを90程度に上げてみた:かなり改善され、多少ボケているが、十分に使える。ちなみにデフォルトのEstimation Radiusは10

----

f:id:dantyutei:20180329165307j:plain

Zerene DMapで、設定のEstimation Radiusを最大値の100に上げてみた:さらにきれいに。ただし、Combineほど精密に合成はされていない。上手くいっていない部分をレタッチすればきれいになるが、大変な労力である。表面の合成の精度をこのへんで妥協し、毛の重なりの利点を取るというのも手であろう。

結果として、平面的な表面構造に関しては、(実は)いろいろなものを撮影してみたが、CombineZPが一番手堅いという印象を持った。CombineZPの動かせない人はZereneのDMapで合成し、レタッチやフォトショップでがんばる。

次に立体感のあるものはどうだろうか。おそらくこういうのがいちばん一般的な被写体だろう。そこで、極端に立体的なツノゼミで比較してみた。

 

f:id:dantyutei:20180322171853j:plain

CombineZP:角の重なりがうまく合成できていないほか、角の側縁の光沢部のハレーションを拾っている。これは元写真にも多少あり、合成の過程で強調されてしまったのものである。ハレーションの強調はCombineZPで起きやすい現象である。

f:id:dantyutei:20180322171854j:plain

Zerene Pmax:角の重なりは「だけ」は上手くいっているが、あとはボケているし、汚い。

f:id:dantyutei:20180322171855j:plain

Zerene DMapのデフォルト:角の表面構造の合成はだいたいうまくいっているが、できていない部分もある。ただ、側縁部のハレーションはないし、角の重なりもまあまあできている(レタッチは必要)。ただ、カタゾウムシの表面構造同様、全体にもやもやしていて、周囲にゴーストができている。

f:id:dantyutei:20180322171856j:plain

Zerene DMapのEstimation Radius 100:驚いた。合成出来ている部分はきれいだが、立体感のある部分(傾斜のある部分)はまったく合成出来ていない。

結論として、立体感のあり、かつ構造の重なりのある虫については、ZereneのDMapのデフォルトで合成し、レタッチするとともに、モヤモヤを誤魔化すために写真を少し暗くし、コントラストを上げるのが一番かもしれない。側縁に光沢がなく、構造の重なりが少なければ、CombineZPで一発で決まることが多い。

なお、光沢が少なく、短毛に覆われた虫は、「非常に簡単」で、どのソフトでも合成能力自体の違いはあまりない。合成の際にピントの合っている部分だけを拾いやすいのだろう。ただ、色あいはかなり変わる。

逆に長い毛に覆われたものは、さきほど述べたように、Zereneのほうが上手くいくことが多い。

f:id:dantyutei:20180329124204j:plain

CombineZP:元の写真の良いところを忠実に拾っているが、コントラストがちょっと強い傾向にある。

--

f:id:dantyutei:20180329123912j:plain

Zerene PMax:彩度が下がり、少し暗くなる。

--

f:id:dantyutei:20180329123913j:plain

Zerene DMap:デフォルトなので、やはりちょっとモヤモヤが残る。

--

--

以上、3つの撮影対象で比較したが、被写体の性質によってかなり使い方が変わる。Zereneも万能ではないし、CombineZPもまだまだ捨てがたい。

設定に関してはまだすべて変えて試しているわけではないので、他に設定変更すべき点があれば、ご教示いただければ幸いである。