断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

カブトムシの壁

たいていの身近な生物には世界共通の名前である学名がある。しかし、学名はラテン文字で書かれており、勉強しないと読んだり覚えたりしにくいことから、日本では一般的に和名が使われる。トノサマガエル、シジュウカライリオモテヤマネコはいずれも和名である。

日本ほど多くの生き物に和名、つまり現地名が付けられている国はないだろう。ラテン文字以外の文字が主に使われる国のなかでも、生き物に関心のある人が多い国民性と自然史研究の歴史が比較的長いことが関係しているものと思われる。

しかし和名に規則はなく、とくに昆虫では学会が標準和名を定めたりすることはない。和名はあくまで提唱するものであって、決定するものではないのだ。よって、1つの種に複数の和名が提唱されていることあり、目録や一般書に掲載されたりして、広まったものがさらに広まる傾向にある。私も本を書くなかで、ときに和名の使用に関して迷うことがある。そして私が和名に関して重視しているのは、普及度と歴史である。さらにいえば簡潔性である。

身近な昆虫に関する和名の問題といえば、玉虫の逗子でおなじみのタマムシである。人や図鑑によってはヤマトタマムシと呼ぶ。しかし私はヤマトタマムシなんて糞食らえという主義で、同様にナミアゲハナミテントウ、キムネクマバチなどは決して使わない。それぞれアゲハチョウ、テントウムシ、クマバチという本来の和名でよい。

たしかに研究者的な観点では、タマムシというと、タマムシ科の昆虫全般の総称と混同しやすいという意見もあるかもしれない。しかし、普通の人からしたら、タマムシといえばあのタマムシであり、「大和玉虫を箪笥に入れると」などとわざわざ言わない。正式な和名(和名にそんなものは存在しないが)はヤマトタマムシで、一般の人は勝手にタマムシと呼べばいいという向きもあるが、それでは和名の意味がないと私は思う。子供向け図鑑や一般書などがこれだけ普及している日本では、和名と一般名は同一であるのが理想である。

一つの属や亜科に複数種いる場合、その代表名のみの和名(先ほどのタマムシみたいな)は許さず、「各種の和名の頭には必ず何かつけたい」みたいな人は昆虫の世界には少なくなくない。挙句には「すべての和名は階層的かつ体系的に」という人もいる。先に述べた通り、私にとって和名には馴れ親しみこそ大切で、長く使われてきたものの安定性を大切にしたい。そして長くて覚えにくいのも意味がない。歴史や親しみをなげうってまでも和名に規則性を求めるのはあまりに独善的すぎると思う。

興味深いのは、彼らのような人たちも、カブトムシに対してヤマトカブトムシ、ノコギリクワガタに対してホンドノコギリクワガタなどと提唱しないことである。たいてい主義が一貫しておらず、日和見的である。私はこの現象を「カブトムシの壁」と呼んでいる。

昆虫以外でも、ホンドギツネアカギツネの亜種和名として)、ニホンアナグマニホンアマガエルのような和名は本当に馬鹿げていて、少なくとも日本本土の個体群に対してはキツネ、アナグマ、アマガエルをそのまま使えと思う。最近はメダカがキタノメダカとミナミメダカに分けられ、種の和名としてのメダカが消えてしまうという事件もあった。こういった和名の改悪(あくまで私の視点)はさまざまな生物群に見られ、それぞれの世界で何かしらの理由があるのだろうが、私はあまり共感できない。

研究が進めばそうなると思いきや、もっとも研究が進んでいる鳥類では多くの和名が余計な修飾なしで使われることが多い。海外の個体群と別亜種だったり、逆に日本に複数の亜種がいたり近縁の別種がいたりしても、古い呼称を尊重し、もともとの和名をできるだけ残しているのがわかる。いつかその歴史的な流れを追ってみたいが、おそらく普及に貢献してきた人たちの考えが現れているのだろう。

そもそもが結論のない議論ではあるし、ここにいくら書いても舌足らずな部分もある。これも、多くの人にはどうでもいいけど、私には大切な問題である。

<草稿>

美しいもの

何年か前、ある大学病院の小児科の病棟で移動博物館をさせてもらったことがある。今でも時折思い出すが、これまでの人生で指折りの貴重な経験であった。

他人に対して可愛そうだと決めつけるべきではないし、本人も家族もそう思われることを望んでいないかもしれないが、私は幼くして命の危険にさらされていたり、生まれた時から病気で一歩も外に出られない人は本当にかわいそうだと思う。

その移動博物館では、ロビーのようなところで展示ケースを置いて展示をしたりもしたが、ベッドから立ち上がることのできない子や無菌室から出られない子たちのところを訪れ、昆虫の標本を見てもらうこともできた。標本箱はアクリル製で特注し、それぞれのベッドを訪れる前にしっかりと消毒できるようにした。

私はあの日に訪れた幾度かの瞬間を一生忘れない。それは、おそらくはじめて標本を見たであろう子たちの目の輝きである。あの喜びと好奇心にあふれた眼差し。目が輝くという言葉を聞くことがあるが、私はあれ以上の輝きを見たことがない。また同時に、その子たちの置かれている状況に胸がつまる思いがした。

そのとき私は確信した。昆虫やあらゆる自然物は本来、人間にとって美しいものであると。「気持ち悪い」というような負の感情は、すべて経験や刷り込みによる先入観によるものである。理屈で考えれば当たり前だが、このような経験を通じて確信できたことは自分にとって何より意味のあることだった。また、罪なき物事に対して、簡単に負の感情を表明することが、いかに馬鹿馬鹿しく愚かであることかと思った。

昆虫の美しさと面白さを多くの人に知ってほしいと常々思いつつ、本を書いたり講演したりしているが、この時の経験は大きな糧となっている。人間の本質としては、自然物に対してあのような目の輝きを持っている。はじめから先入観を持たせないようにしたり、払拭したりできたら、なんて素晴らしいことか。

またいつか、移動博物館ができたらと考えている。

どうでもよくないこと

生物の学名は私たち分類学者には特別なものである。そして、その発音について、生き物に関わる人たちの間では、「こだわり派」と「自由に読めばいい派」や「どうでもいい派」に分けられる傾向にある。私はもちろん「こだわり派」であり、自由派やどうでも派とは相入れない。かといってそれらの人たちに意見をしようとは思わない。関心のない人への意見や議論は無駄だからである。たとえば植物の流通名が学名のカタカナ読みである場合、多くは不規則でめちゃくちゃだが、それについて文句を言おうとも思わない。

学問とは自分で学んで、自分だけで知識を反芻して楽しむのが本来のかたちである。逆に、自由派やどうでも派が、「テキトーにすべきだ」「こだわるのはおかしい」などと他人に解くのも間違っている。これまでの経験上、それらの人たちはほとんどの場合、単純に学名や語学に関して無知であり、そのような立場で何かを意見することはできないからである。「知らないくせに意見したがる人」「知らないから否定する人」、逆に「知ってるから言いたい人」というのはどこにでもいて、必ず無駄な対立を生む。どんな世界でも、あるものにこだわりがある人とそうでない人は、互いの立場を尊重しつつ、片方は自らの無知無関心を認め、そのことについては一切の関わりを持たないのが平和な姿である。

さて、そもそも学名の発音とは何か。基本は古典ラテン語の発音だろう。英語園、特にアメリカでは、英語式の規則的な発音方法がある。それ以外の国で、ローマ字を母語に用いている人々は、その言語の発音に近い発音をしていることもある。しかし、東欧の研究者などはかなりラテン語を意識して発音しているし、もともと中立的な言語として学名にラテン語が使われるのだから、われわれ日本語を母語とする者もラテン語を意識するのが自然のように思える。もちろん、ラテン語の発音の教科書はあれど、それを学ぶのは容易ではない。カタカナ表記にも限界はある。ラテン語化された固有名詞はどうしようか。でも、そういうことを含めて面白いのである。

ここまで読んで、やはりどうでも良いと思った人もいるかもしれない。たしかにこんなことが学問的に高い価値を持つとも思えない。しかし、どうでもいいことに対して、どうでもいいと思いつつも、ついつい熱心に調べてしまうのが、趣味や学問の楽しみというものである。つまらないこだわりこそ真骨頂なのである。もちろん、われわれのように分類学を学ぶものは、ラテン語を語学として最低限学ぶ必要がある。語学の習得に発音を無視することは決してありえない。だから学問として学名を学ぶならば、発音へのこだわりは自然の成り行きなのである。

 

ガガイモ メモ

ガガイモのコレクションは300種近くに達し、かなりの種と属が集まってきた。ガガイモだけ集めてるバカは少ないので、たぶん日本一だろう。

毎日何らかの花が咲いて楽しいが、たまに難物をダメにして悲しい思いをしている。

温室は生育が素晴らしいのだが、難しいのは温度の管理。晴れた日に閉め切ると、冬でも30度を超えてしまう。12月から2月は晴れても知れた量の日射なのでまだいいが、10-11月、そして3-5月は開けたら寒い時があるし、閉め切るととんでもないことになるので、難しい。

ガガイモには遮光が重要で、生育にも大きく関係する。寒い時期は温室の外側の遮光ネットを外し、内側からガラスに断熱のプチプチを貼り、内側に弱く遮光ネットを張った。

しかし3月になって、晴れると、とんでもなく気温が上がるし、日射も強くなり、あっという間に多くのガガイモが日に焼けてしまった。

4月始めにプチプチを外し、外側から遮光ネットを張ったが、3月中旬には、少なくとも外側の遮光ネットを張るべきだった。

ガガイモはわずかに焼ける程度が美しく、健康になる。しかし、種によって最適な日射の加減が様々で、それでも同じ場所に置かなければならないので、とても難しい。

いまは特に強い日射を必要とするものだけ、仕切りをつけて西からの強い日差しが当たるようにしている(写真の右奥)。その他は同じ条件で、試行錯誤の毎日である。

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虫の本を書くわけ

ここ数年、切れ目なく本を出し続けている。今年も数冊が出る予定だ。

本を書くということには、昔から憧れがあった。それは単純に本というものが好きだからである。今でも形になった自分の本を手に取る瞬間は嬉しい。

最初に出した本は『森と水辺の甲虫誌』で、編著者にさせていただいた。これは単に本を出してみたいという希望とともに、就職にあたって1冊くらい本があったほうが有利であろうという、いま思えばしたたかな戦略によるものでもあった。

それからしばらくして、その本をきかっけに仲良くしていただいていた東海大学出版部の稲さんが、若手の野外調査中心の研究者の本を企画したいとのことで、「フィールドの生物学」シリーズとして、『アリの巣をめぐる冒険』を書かせていただいた。自分が30半ばになる折り返し地点として、とても力を入れて、2年近くをかけて文章を書いた。

この本は他社の編集者の方々にも評価をいただき、丁寧に書いた甲斐があったものだと思った。その数年後、この本を読んだというフリーの編集者から声をかけていただき、『昆虫はすごい』という題で何か書いて欲しいと依頼された。これが思いのほかよく売れ、その後、さまざまな執筆依頼が加速的に増え、ちょっとした人生の転機となった。

数年前に『情熱大陸』に出たのは、大切な思い出であり、これは『昆虫はすごい』のヒットの後だが、私を選んだディレクターの方は、『アリの巣をめぐる冒険』を読んで出演を依頼しようと決めたという。そういう意味でも、いままでたくさんの本を出しているが、『アリの巣をめぐる冒険』は自分にとって特別な意味を持つ本である。

いろいろな本を出していると、全国の虫が好きな子供からたくさんの手紙が来るようになった。私は自身が幼稚であるため、昔から子供との距離感が難しいところがあって、子供との付き合いはどちらかというと苦手だった。しかし、私も当然虫が大好きな子供だった。子供たちからの手紙を読むと、幼かった自分のわくわくとした気持ちにも重なり、とても嬉しい気持ちになるとともに、何よりの励みとなった。それからイベントなどで子供と話す機会も増え、苦手意識のようなものはあまりなくなっていくと同時に、むしろ楽しくなっていった。

そこへ来て、こんどはNHKラジオの「子ども科学電話相談」の出演依頼が舞い込んだ。私が子供のころ、文字通り穴があくほど、本当にボロボロになるほど読んだ図鑑の著者、矢島稔先生の後任にあたるそうで、緊張もあったが、それ以上に飛びあがるほど嬉しかった。このラジオ出演は、実に難しい仕事ではあるが、本当に楽しく、とてもやりがいを感じている。

本の話しに戻るが、そういう状況で、本を書く目的が変わりつつある。本を出す単純な喜びよりも、子供を中心とした読者に対しての普及啓発を目的としたいという気持ちがより強まってきたのである。展示に関しても同様で、以前は自分の満足のために一つの作品を作るような感覚があったが、いまではより多くの人に虫のことを知ってほしいという気持ちのほうが大きくなってきた。

私のような仕事をしていると、昆虫に理解がある人ばかりに囲まれ、世の中は昆虫好きばかりなのではないかと錯覚しそうになる。しかし、少し冷静になれば、そんなことはないとすぐにわかる。日本人はまだ虫好きが多く、好きではなくても無関心だったり、苦手ではないという層がかなりいるが、昆虫のことをよく知らないという人が大多数だし、嫌いだという人もとても多い。

生き物に対する無関心や無理解を背景とした悲しい出来事はとても多い。喜ばしいことのように報じられるニュースも、実際はある生き物の生息地の開発だったり、希少種の乱獲ということもなくない。昆虫は言うまでもなく身近な生き物で、生き物に対する関心や理解を深める大切な入り口の一つである。そういう意味で、昆虫のことを多くの人に知ってもらうのは、とても重要なことである。

もちろん、みんなに虫を好きになって欲しいとまでは思わない。土台無理な話しだ。しかし、たとえ嫌いであっても、少しでも無理解を減らしてもらうことが大事だと思っている。同時に、さきほどの「好きではなくても無関心だったり、苦手ではないという層」に期待もしている。私の本を読んで、虫に興味を持ったとか、虫が好きになったという手紙をいただくことも多く、そういうときは本を出して良かったとつくづく思う。そういう人たちは、「好きではなくても無関心だったり、苦手ではないという層」だったに違いない。さらに、そういう大人になって虫好きになった人と話すと、長年虫採りをやってきた人よりもむしろ、環境や昆虫のこと、普及啓発の大切さを真剣に考えていることも多い。

普及啓発のような仕事は、大学ではなんの業績にもならないし、研究一筋のような研究者からは、良く思われないこともある。私も大学教員になってすぐは、研究こそ自分の任務だと信じていて、研究以外のことに時間を割く研究者を軽蔑していたところもある。しかしこの歳になって、それぞれの研究者に役目があり、思い上がりかもしれないが、出版物やマスメディアを通しての普及啓発は自分の研究者としての役目ではないかと思うようになってきた。そしてここ数年、本を書くということは、そのなかで一番大事な仕事の一つだと思っている。

もちろん、普及啓発にもいろいろあり、昆虫に関しては、昆虫館や博物館、各地の同好会などの活動は非常に重要だと思っている。最近では昆虫関連のグッズを作る方も増えていて、ますます裾野が広がっていて、実に素晴らしいことだと思う。

年配の研究者や虫屋のなかには、昆虫は嫌われ者だと決めつけ、普及啓発を軽視する向きもある。しかし、昨年の科博の昆虫展の40万人という驚異的な人出や、昆虫大学というイベントの混雑ぶりをそういう人に見てほしい。やはり昆虫の普及啓発は意義深いはずだ。

45歳を目前にいろいろ考えることが多い。もう折り返し地点は過ぎた。展示を含む雑感は、『昆虫大学シラバス』にも書いている。夏までは書籍や展示の仕事に忙しいが、今年からは研究にも復帰したいと思っている。

生き物屋が家を買う

前に書いたように、家を買う動機は動植物を存分に飼育・栽培するためだった。当初は家を建てようと思っていたが、途中から中古住宅か建て売りの可能性も視野に入れ、家探しをした。たくさんの本を読んで勉強し、あちこち見てから契約を決めた。引っ越しから5カ月がたったが、ここを買って正解だったと思っている。記憶の鮮明なうちに、家えらびの際に気を付けていた点をまとめたい。

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広い土地 当然大切。ある程度の広さの建物があり、さらに庭の利用を考えると、最低50坪。それ以下だと、遊びに使える土地がほとんどないと思ってよい。これは絶対に後悔しそうだったので、私は60坪以上を条件とした。かといって100坪以上あると、こんどは管理が大変で、現実性に欠く。

南側に道路のある土地 日当たりが必要な場合、もっとも大事な条件。しかし、一番人気があるのでなかなか出物がない。何度妥協しそうになったことか。

低層住宅地域  せっかく日当たりのよい土地が手に入っても、目の前に高い建物が建ってしまったら、元も子もない。

静か 見に行った場所によっては、近くに交通量の多い道路があった。そして夜にも見に行くと、案外うるさいことがわかって、やめたこともあった。良い家が見つかったら、不動産屋さんに頼んで、夜に入れてもらうのが大事。

高速道路から遠い 静かという条件にも重なるが、排ガスが気になる。

平坦地 福岡は山がちで、斜面で段差のある土地が多い。2階分ほどの階段を上がって、ようやく玄関に着くような土地も少なくない。しかし、歳をとるときつくなるだろうし、崖条例や擁壁の寿命等で、立て替えに困難が生じ、資産価値の問題にもつながる。よって平坦地が良い。段差のある土地の場合、土を足したところより、土を削ったほうが安定しているので、調べる必要がある。

少し高台で川から遠い 過去の水害記録の記載された地図は役所で手に入る。また、地形と標高からも想像はつく。糸島市は線路沿いや202号線付近に水害を経験した場所が多く、できるだけ避けた。高台でも案外平坦地はある。

山や崖から遠い 同じように、崖の近くでは、地滑り等の災害がある可能性がある。土砂災害警戒区域の宅地も結構あって、事前に調べると安心。でも、水害同様滅多に起きるものではない。これらは火災保険の金額にも関係する。

中古は築10年程度 福岡は人気なので、築5年程度の中古住宅はほぼ皆無。築10年前後もかなり希少である。それらは一家離散や転勤などによって売り払われた貴重な物件である。多くの中古住宅は築20-30年で、まだまだ住めるのだが、資産価値はゼロだし、耐震性に問題があることが多い(2000年6月以前は耐震基準が甘かった)。耐震補強は高くつく。

駅からの距離 最初は徒歩15分で便利な駅を目標にしていたが、駅からの距離は価格に直結するため、だんだんと妥協していった。それでも、あまり遠いと、車に乗れなくなったときに不便である。駅にもいろいろあるが、便利な駅から20分程度以内を目安とした。

価格 大切だが、判断に迷うものではない。だいたい相場というものがあって、たくさん見て行くとわかる。私は年齢の関係でローンの期間が限られているので、新築なら4000万円程度、中古なら3000万円以内と決めていた。

建築会社 会社によって建物の価格が大きく異なる。安さを売りにする建築会社は、やはりそれなりの造りである。セキスイなどの高級住宅はやはり良くできているが、とても手が届かない。建てた会社の実績や評判を調べるの大事。屋根裏や床下も確認して、作りの良さや手抜きのなさを自分で確認する必要もある。

 幸運にも、上記の条件に合う中古住宅を見つけて、下見の直後にすぐに決めた。まったく迷いはなかった。その前に何十件も見ていて、目が肥えていたからである。勝因はこれに尽きる。少しでも気になる出物があれば、とりあえず見に行くのが大事で、その際に学ぶことも多い。

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その他、重要な条件

床面積 だいたい100-120平米前後が平均で、住みやすい、最近の中古には、老人の2人暮らし用に作られた60平米程度の平屋も結構あった。また過去に大家族が住んでいた150平米以上の大きな家も結構ある。広いと掃除が大変だし、空調が行きとどかないし、電気代がかかる。広すぎる家は避けた。

水道は20mm径  水の勢いの問題である。古い家屋だと13mm径だが、最近は2階にトイレがあるのが普通だし、庭の水道など、蛇口数を考えると、20mmが良い。私の家は、どういうわけか13mm。水槽の水替えに少し時間がかかる程度で、2階にトイレがあるが、それほど不便は感じていない。

24時間換気 新しい家には必ずついていて、換気する機械の種類や、空気の取り込み口・吐き出し口が異なる。よく調べて良いものを。家がジメジメしないし、空気の循環でカビなどが生えにくい。

新興住宅地 福岡の田舎では、古い住宅地だと、各種の当番や役員で忙しいことが多いという。とくに糸島市は大変だと聞いていた。しかし、新しい住宅地だと、そのようなしがらみがない。

家の前の道路の幅が広い 些細なことかもしれないが、車の出し入れのストレスが少ない。最近では4mが義務付けられているが、4mちょうどだと、かなり車庫入れが難しくなる。ちなみに道路幅が4m以下だと、建て替えの際に、その分の土地を道路に供出しなければいけない。

複数のスーパーが近くにある 買い物の選択肢が多いのは、実は結構大事だとわかった。今の場所は、いろいろまわるには車が必要だが、どこも駐車場が広くて、不便はない。買い物に関しては、天神近くに住んでいた時より、かなり便利だし、安く買える。糸島の新鮮な野菜や海産物も容易に買える。

近所の人の良さ 近所づきあいも大事だし、おかしな人がいたら困る。売主に聞くのが一番だが、周囲の人と話してみるのも大事。

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新しい家のその他の良かった点

海が近い これも選んだ理由だが、透明度5m以上の海に車で10分で着くのがすばらしい。

山が近い 山が見える。森も見える。いいものである。

屋根にソーラー発電 屋根一面についていて、冬季をのぞく昼間は電気代が一切かからないうえ、売電で収入があることがわかった。売主さんが3.11の際につけてくださったそうだ。

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新しい家でちょっと嫌な点

駅から少し遠い 最寄の駅までは徒歩7-8分なのだが、そこは本数が少ない。大きな駅までは徒歩20分程度かかる。バスで通勤しているので、たいしたことはないが、たまに電車に乗ると不便を感じる。

ブタの匂い 結構遠いところだが、養豚場があるようで、風向きによっては堆肥のような匂いがする。夏が気になるところ。糸島市中央部ほぼ全域の問題かもしれない。

要するにほとんど不満はない。

父の死

昨年の10月に父が死んだ。77歳だった。

11年前に奄美大島の南に近接する加計呂麻島に移住し、まさに悠々自適に暮らしていたところ、数年前に大腸癌が見つかった。手術は成功し、その後、こまめに検査を受けていたが、昨年の初めに肺へ転移していたことが発覚した。時すでに遅しで、手術も抗癌剤治療もできる状態ではなく、余命10カ月と告げられた。

昭和16年、父は疎開先で祖母の実家である千葉県の大網で生まれた。戦後しばらくして丸山家のある東京に戻り、東京で育った。祖父は職業軍人で、父の名の「勲夫」の由来は言わずもがなである。戦後、祖父はつぶしがきかず、仕事に困り、丸山家は随分とお金に苦労したようだ。そしてその祖父も56歳で若死し、父は大学を途中でやめて、まだ子供だった叔父と叔母を祖母とともに育てた。

父は大学中退後に家電会社に就職。しかし、サラリーマンは合わなかったのだろう。それからは飲食店を中心に商売をしていたようだ。私が子供の頃は竹橋で喫茶店をやっていて、夏と冬に従業員の社員旅行があって、それについていくのが楽しみだった。最後に長くやったのは、エアコン取り付けなどの設備工事で、60歳半ばで引退した。

生き物が好きで、老後もいろんな生き物を飼っていた。加計呂麻島でも磯で魚貝を採ったり、柑橘類や野菜を作るのが楽しみだったようだ。

余命幾ばくもないとわかって、父は加計呂麻島の家を引き払い、東京に戻ってきた。男親と息子とのよくある関係で、あまり会話はなかったが、私はできるだけ東京の実家に帰った。江戸っ子気質で何事も潔い父は、運命だから仕方ないと諦め、ゆったりとした時間を過ごしていた、

夏ごろにはかなり悪くなり、科博の昆虫展を見せてやることができなかったのは残念だった。肺癌はかなりの痛みを伴うそうで、鎮痛剤の投薬量も日に日に増えて行ったが、一切の泣き言は言わなかった。

秋になると譫妄(せんもう)という痴呆に似た症状が出てきて、昼夜逆転して母を困らせた。ある朝、母が前の晩の様子を話すと、父は大声で泣きながら「すみませんでした」と謝ったという。

10代で社会に放り出され、弟と妹を育てつつ、一人でなんでもしてきた父にとって、言うことの利かない体で迷惑をかけるのが心底情けなかったに違いない。そんな風に弱ってしまった父を見て、悲しみとともに、父がもうすぐ死ぬという実感がようやくわいてきた。

とにかく愚痴や泣き言を言わない父であったが、死ぬ直前に子供の頃に苦労した思い出を母に話したそうだ。それからさらに譫妄が進み、病院に入ったあと、数日して息を引き取った。

父の死を前にして、自分の死についても考える機会が多くなった。近親者の寿命を考えると、私もあと30-40年がせいぜいだろう。最近はとにかく忙しく、自分の研究時間さえなかなか取れない。残された時間のことを考えて毎日を過ごしたいと思った。

 

ガガイモ好きを増やしたい

私が多肉ガガイモ(ガガイモ亜科スタペリア連)を集めているのは、このブログでも何度か書いた通りである。昨年秋に一戸建てに引っ越す後押しをしたのも多肉ガガイモで、温室で上手く育てたいというのが大きかった。

こんな風に夢中になっている多肉ガガイモ(以下、ガガイモ )ではあるが、日本の愛好家はとても少ない。根強い人気はあるにはあるが、ガガイモだけという人はほとんどいないだろう。しかし、ヨーロッパではガガイモ専門の趣味人がかなりいる。ヨーロッパ人会員を中心とした国際ガガイモ学会(ガガイモ亜科全体だが、記事はスタペリア連中心)もあるし、フェイスブックのガガイモグループもヨーロッパ人を中心に1万人を超える。(タイ人や台湾人も多い。)

ガガイモの魅力は何と言ってもその珍奇な花である。ハエ媒介という共通性も手伝ってか、一部はミニラフレシアのような姿で、匂いこそ強烈だが、独特の美しさがある。乾燥地に咲く特異な花ということで、砂漠のランと評されることも多い。また、茎もそれ自体が美しい。程よく陽に当てると迷彩柄の浮かび出るものあるし、サボテンやエウフォルビアと収斂しているトゲトゲや丸い形のものもある。

それではなぜ日本で人気がないのか。よくわからないのだが、おそらくまだその魅力が十分に広まっていないのと、一部の入門種を除いて栽培の難しさがあるのではないだろうか。栽培が難しいので、魅力的な花を見ることなく終わってしまう人が多いものと思われる。交流のあるドイツ人愛好家曰く、グループとしての平均的な難しさは多肉植物の中では指折りとのことだった。

私は2年前に本格再開した初心者だが、だんだんとコツがわかってきた。大切なのは、しっかりとした送風(送風機で風を当てるのが絶対)、十分な保温(多くは20~30℃が適温)、適当な水やり(多肉としては多めだが、数日で乾く量)、弱い日射(直射を好む種は少ない)、害虫防除(カイガラムシとハダニ)、殺菌(フサリウムが怖い)である。これらの点に注意すれば、多少とも園芸歴のある人であれば、それほど難しいものではない。

目下の悩みは、愛好家が少ないために、日本国内でほとんど流通しておらず、流通しているもののほとんどが同定間違いや雑種で、珍しいものは自分で輸入するほかないことである。しかしこれも、昨年末からの植物検疫の締め付けで少々難しくなってしまった。

しばらくはSNSで布教してファンを増やし、数年後に納得のいく材料が揃ったときに、ガガイモの本を出したいと思っている。多肉植物の栽培指南書は数多あるが、ガガイモはまるごと割愛されているか、間違ったことが書かれているものが多い。また、栽培指南書は揃って入門編ばかりで、きちんとした栽培の理屈や、高等技術が出ているものはほとんどない。こういう目標があると栽培にも熱が入るかというものである。

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城計画6 畑作戦

家庭菜園は究極の園芸趣味の一つだと思う。単純に食べる目的でやっている人は多くないはずだ。それなら八百屋でやった方が安くつく。野菜を作るのは基本的に難しい。野菜によっては簡単にできるにはできるけど、立派なものをたくさん作るのには大きな壁があり、かなりの高等技術である。良いものが出来たときは、それを美しいと思う瞬間もある。これを園芸と言わずになんと言おうか。

それはさておき、2008年に九大に赴任して、官舎に住み始めてから、その中庭にある花壇で家庭菜園を始めた。子供の頃から植物を育てるのが好きだったので、これで思い切りできると嬉しかった。

それから2015年に中央区の桜坂に引っ越して、思い切りやろうと、西区の今宿上原にあるJAの菜園を借りた。50平米ほどあって、広大である。機械なしに作業できる限界の広さに近い。

ここでの作業は楽しかったのだが、問題は遠いことである。車で自宅から30分以上かかるし、忙しい時には数週間も行けない。夏場は、久しぶりに行くと雑草でジャングルのようになっていたし、ナスのように水を必要かとするものはうまくいかない。そもそも、オクラやズッキーニのような果実の成長の早い野菜は収穫がまともに出来ない。さらに、直播の野菜については、頻繁に水をやりに行けずに発芽に失敗することも多かった。

また、その畑は水田跡の粘土質で、土が重いうえに水はけも悪く、毎年大量の堆肥を混ぜても、土作りには限界があった。

いつしか庭で家庭菜園ができたらと夢想した。庭にあれば毎日世話や収穫ができる。もちろん水やりもできる。今回、家を選ぶ際、家庭菜園ができることも重要な条件とした。

はたして購入した家には、庭の拡張後に、南向きに80平米ほどの庭ができた。15平米はサンルームの基礎に使ってしまったが、約50平米は純粋に畑に使える。

庭の拡張の際に土が足りなくなったので、家庭菜園にも使えるという真砂土を買って、補充した。2トンほどで18000円だった。本当は黒土が欲しかったのだが、福岡近郊で採れるところがなくなっており、鹿児島から仕入れるそうで、造園屋さんに真砂土で充分だと言われた。粘土よりはるかにマシである。ダンプで駐車場に下ろしてもらったのだが、何しろ2トン。これをスコップで庭に入れるのが大変だった。

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次にホームセンターに通って、40リットルの堆肥を15袋ほど買って、苦土石灰とともに土に混ぜ込んだ。これは少しずつ進めた。この作業はスコップとクワだけではとても無理。いろいろ調べて買ったリョービの電動耕運機が多いに役立った。かなり馬力があって、あっという間に終わる。エンジン式だと音がうるさくて、住宅地には向かないのでこれにしたが、とても静かで、正解だった。ただし、この駆動中の機械を支えるのにかなりの腕力が必要。この際、土の中から、たくさんのチガヤの茎が出てきた。厄介な雑草なので、できる限り丁寧に取り除いた。

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実は引っ越し時がタマネギの植え付け時期だったので、もともと土のあった場所に畝を3つだけ作って、急いで植えていた。それから忙しくて時間が空いたが、つい先日、天気の日を狙い、残りの畝を急いで作った。なかなか良い土になり、堆肥と新しい真砂土の相性も良い。引っ越し時にポットに種を蒔いたソラマメも植え付けた。これから他の野菜を植えるのも楽しみだ。

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畝ごとに杭を打ち込んだが、これは水やりの際にホースで苗を傷つけないためのものである。

果樹の苗も植えたが、その話は次に。