断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

ダサイとカッコ悪い

某テレビ番組の密着取材を受けたとき、私が何でも言えるようにと、毎晩宴会が開かれた。私は警戒しつつ、まずは相手のことを知ろうと、遠慮なく質問する。そして私も、酒の酔いも手伝って、自分のことを話さざるをえなくなる。結局、カメラマンのSさんとディレクターのKさんの三人で、お互いの胸の奥にある大切な経験や考えの多くをさらけ出すことになった。大人になってからそのような出会いはなかなかないはずで、他人、しかも二人もの人生の一端を知ることができたのは、今でも人生の宝物になっている。やはり他人の人生をほど興味深いものはない。

その際、カメラマンのSさんから聞いた言葉で、今でも胸に焼き付いているものがある。それは、「カッコ悪くてもいいから、ダサイ奴にはなりたくない」である。50過ぎのおじさんが卑猥な冗談の合間に何度も口に出したのだが、これを言うときだけは真顔になるのを私は見逃さなかった。「カッコ悪い」も「ダサイ」も字面ではほとんど同義で、そもそも他人の言葉の意味を完全に捉えるのは難しいものだが、あまりにも長く話したので、私にはよくわかり、共感できるものだった。

ここで言う「カッコ悪い」とは、なにかに失敗したり自分の弱さがふと出てしまうようなことである。悪あがきしたり、感情的になってしまったり、ついついやってしまう。一方、「ダサイ」とは、虚勢をはったり、謝らなかったり、ケチケチしたり、陰湿なことをしたり、つまらない正論を吐くことである。そこまでは仕方ないにしても、問題はそれらを平気でやってしまう神経である。とくにうっかり出やすいのは、嫉妬や羨望に起因した陰湿な感情である。これは恥として意識的に押し殺さないといけない。実はこの恥とはとても大切な感情の一つで、人によって規準はさまざまだが、この辺の感覚の重なりが、仲良くなれる人とそうでない人を分けるのではないかとも思う。

私の場合、「カッコ悪い」はしょっちゅうで、そのたびに恥ずかい思いをしている。そして悪いことに、たまに「ダサイ」をしそうになり、ヒヤリとすることもある。結果的には「ダサイ」をしてしまうのも人間の弱さになるけれど、してしまったとき、しそうになったときに、それを認識しつつ、そんな自分と戦える大人になりたいものである。私も40代半ばに差し掛かるが、どうせ大人になんてなれないのだから、大人になろうという気持ちは忘れないようにしたい。そしてダサイ大人にはなりたくない。