断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

カブトムシの壁

たいていの身近な生物には世界共通の名前である学名がある。しかし、学名はラテン文字で書かれており、勉強しないと読んだり覚えたりしにくいことから、日本では一般的に和名が使われる。トノサマガエル、シジュウカライリオモテヤマネコはいずれも和名である。

日本ほど多くの生き物に和名、つまり現地名が付けられている国はないだろう。ラテン文字以外の文字が主に使われる国のなかでも、生き物に関心のある人が多い国民性と自然史研究の歴史が比較的長いことが関係しているものと思われる。

しかし和名に規則はなく、とくに昆虫では学会が標準和名を定めたりすることはない。和名はあくまで提唱するものであって、決定するものではないのだ。よって、1つの種に複数の和名が提唱されていることあり、目録や一般書に掲載されたりして、広まったものがさらに広まる傾向にある。私も本を書くなかで、ときに和名の使用に関して迷うことがある。そして私が和名に関して重視しているのは、普及度と歴史である。さらにいえば簡潔性である。

身近な昆虫に関する和名の問題といえば、玉虫の逗子でおなじみのタマムシである。人や図鑑によってはヤマトタマムシと呼ぶ。しかし私はヤマトタマムシなんて糞食らえという主義で、同様にナミアゲハナミテントウ、キムネクマバチなどは決して使わない。それぞれアゲハチョウ、テントウムシ、クマバチという本来の和名でよい。

たしかに研究者的な観点では、タマムシというと、タマムシ科の昆虫全般の総称と混同しやすいという意見もあるかもしれない。しかし、普通の人からしたら、タマムシといえばあのタマムシであり、「大和玉虫を箪笥に入れると」などとわざわざ言わない。正式な和名(和名にそんなものは存在しないが)はヤマトタマムシで、一般の人は勝手にタマムシと呼べばいいという向きもあるが、それでは和名の意味がないと私は思う。子供向け図鑑や一般書などがこれだけ普及している日本では、和名と一般名は同一であるのが理想である。

一つの属や亜科に複数種いる場合、その代表名のみの和名(先ほどのタマムシみたいな)は許さず、「各種の和名の頭には必ず何かつけたい」みたいな人は昆虫の世界には少なくなくない。挙句には「すべての和名は階層的かつ体系的に」という人もいる。先に述べた通り、私にとって和名には馴れ親しみこそ大切で、長く使われてきたものの安定性を大切にしたい。そして長くて覚えにくいのも意味がない。歴史や親しみをなげうってまでも和名に規則性を求めるのはあまりに独善的すぎると思う。

興味深いのは、彼らのような人たちも、カブトムシに対してヤマトカブトムシ、ノコギリクワガタに対してホンドノコギリクワガタなどと提唱しないことである。たいてい主義が一貫しておらず、日和見的である。私はこの現象を「カブトムシの壁」と呼んでいる。

昆虫以外でも、ホンドギツネアカギツネの亜種和名として)、ニホンアナグマニホンアマガエルのような和名は本当に馬鹿げていて、少なくとも日本本土の個体群に対してはキツネ、アナグマ、アマガエルをそのまま使えと思う。最近はメダカがキタノメダカとミナミメダカに分けられ、種の和名としてのメダカが消えてしまうという事件もあった。こういった和名の改悪(あくまで私の視点)はさまざまな生物群に見られ、それぞれの世界で何かしらの理由があるのだろうが、私はあまり共感できない。

研究が進めばそうなると思いきや、もっとも研究が進んでいる鳥類では多くの和名が余計な修飾なしで使われることが多い。海外の個体群と別亜種だったり、逆に日本に複数の亜種がいたり近縁の別種がいたりしても、古い呼称を尊重し、もともとの和名をできるだけ残しているのがわかる。いつかその歴史的な流れを追ってみたいが、おそらく普及に貢献してきた人たちの考えが現れているのだろう。

そもそもが結論のない議論ではあるし、ここにいくら書いても舌足らずな部分もある。これも、多くの人にはどうでもいいけど、私には大切な問題である。

<草稿>