断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

今日はKistner氏の文献コピーなど。同氏はいわずと知れた現代の好蟻性昆虫・好白蟻性昆虫の大家で、カリフォルニア州立大学の名誉教授である。1975年以降、彼の論文はほとんどすべて、自分で作った雑誌Sociobiology氏に掲載しているが、それ以前はさまざまなジャーナルに書いていた。同氏の別刷りはほとんど揃っていると思っていたが、1950-60年代の古いものには持っていないものもあった。そこで今日はそれらをコピーした。いまでこそ少し乱暴な論文を書いているが、若いころにはいろいろと細かい考察を書いていて、読んでいて楽しいし、とても参考になる。

同氏は若いころにアフリカの各地を旅して、サスライアリやシロアリの居候を採集し、莫大な成果を得ている。世界中の博物館の好蟻性・好白蟻性のハネカクシの標本をかき集めても1000頭に満たなかった時代、彼はコンゴでの3週間の調査で、13000頭の好蟻性ハネカクシを得ている。そういった調査を繰り返し、さらには多くの協力者のもと、彼はいままでに500近い新種を記載した。いまでも70年代の調査標本を論文にしており、彼のアフリカの調査がいかに充実したものであったのかがわかる。その調査の様子は、亡きご夫人の書かれた「An Affair with Africa: Expeditions and Adventures Across a Continent」に描かれている。数々の成果、危険の数々、まさに冒険である。Kistner氏の退官の年のクリスマスカードはご夫人が書いていて、同氏を評してこれほど幸せな人はいないとのことだったが、本当にそうだったのだろう。そして、幸せな夫を支えたご夫人も幸せだったに違いない。

さて、以下の写真は、最も珍奇で有名な好蟻性昆虫であるMimanomma spectrum Wasmannである。カメルーンの固有属固有種で、サスライアリDorylus (Anomma)の行列に見られる。属名のMimanommaは「Anommaに紛らわしい」という意味で、Anommaは寄主の亜属名である。種小名のspectrumは幽霊や幻影という意味だろう。世界の甲虫36万種のうち、最も変わったものを順に選ぶとしたら、この種は頭から5番目以内に位置するに違いない。眼は無く、上翅もほとんど原型をとどめていない。体はナナフシのようで、腹部はまさにアリそのもの。

Kistner氏は1960年のカメルーン調査でこの種を4頭を得ている。好蟻性昆虫を研究する者であれば誰もが一度は見てみたいと思う種に違いないが、Kistner氏も、論文の文脈からしてこの種にはあこがれを抱いていたようで、カメルーン調査の目的はこの種にあったようだ。いつもはご夫人を伴って調査していたようだが、カメルーン調査だけは「テロリスト(ゲリラ)の危険があったので、幼子を持つ妻は同伴せずに一人で行った」とのこと。命の危険にさらされながら、アリの行列にこの種を見た同氏はそのとき何を感じたのだろうか。


昆虫学ように専門用語が洗練されていない分野では、しばしば日本語での言葉遣いが問題になる。大抵はヨーロッパの言語から生まれた用語を訳して用いられるが、そもそもそれらの言語の単語と日本語の単語の意味が完全に重なることはほとんどないので、完璧な訳というのはほとんど無理に等しい。専門用語の訳という点では、どの分野でも同じ問題があると思うが。したがって、日本語化された専門用語を使用するには、外国語の語源を背景に常に意識しておくか、その訳を本来の日本語とは別物と割り切って扱うこともときに必要となる。なお、昆虫研究者でもたまに持っていない人がいるが、昆虫学用語については、「素木得一 昆虫学辞典」が必携である。定価は2万円くらいと高いが、たまに5千円くらいで売っている。

解剖だが、私はピンセットと柄付針か柄付針2本を用いて行っている。対象があまりにも小さいので、柄付針2本のことが多い。柄付針の針は重要である。微針を好む人がいるが、私は志賀昆虫の無頭針の4号から先の細いもの(当たり)を選んで使っている。なぜか有頭よりも無頭のほうが先端がするどい。また、とくに研究室の片隅に埃をかぶっているような古いものほどよい。熱して伸ばして針先を作ったのだろうか、たまに先が糸のように伸びている出来そこないがある。これが当たりなのだが、昔のものほど当たりが多い気がする。これは自然研の岸本さんに教わった裏技である。志賀の微針は、全体にこそ細いが、先端は格別に鋭くない。そもそも微針というのは腰が弱く、力を入れたいときに力が入らないので、解剖には向かないように思う。どうしても微針が好きな人は、イギリスのメーカー(Watkins & Doncaster)のものが鋭くてよい。当たりの無頭針をまずは半分か2/3程度に切り、それを半分に切った割り箸の先端にペンチでグイと差し込めば、柄付針の出来上がりである。ちなみに、割り箸は正月に使うようなちょっと高級な断面の丸いものがよい。私は使ったことはないが、注射針の先端を磨いで、それをナイフのようにして、膜質部を切るのに使う人もいるそうだ。

なお、ピンセットは10代のころに志賀で買ったものを未だに愛用している。いまでも同じ型番(Dumont No.5)のものが売っているが、腰が強すぎ、全く使えない。聞くところによると、純粋な鋼鉄製から錆びにくい素材のものに変わってしまったそうで、鋼鉄製のものは今ではほとんど作られていないそうだ。鋼鉄製は錆びやすいという欠点があるが、昆虫の標本を扱うには最適である。いまでは虫屋の遺品でし手に入らないかもしれない。