断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

一昨日の日記で分類学の不幸について書いた。普及に関する努力をする必要があることが不幸と書いたが、もちろん多くの分野でも同様にその努力は必要である。しかし、分類学のそれは少し毛色が違うように思う。分類学に対する負の印象を念頭に置かなければならない窮屈な努力とでも言おうか。「分類学者」というものに対する紋切り型の印象が存在することはたしかであり、それは他分野の方と接する際にしばしば感じてきたことである。もちろん、分類を研究する人でもそれぞれに独自の切り口や歩み寄りがあり、そのほとんどがいわれのない評価だが、そのような印象を与えた分類学の仕事そのものや研究姿勢があった(ある)ことも確かだろう。また分類学者がどんな考えで何をやっているのだろうかという実態の不明瞭さが、紋切り型の負の印象をさらに増長させてしまっているに違いない。さてどうすればよいだろうか。まずはこの現状にまっずぐ向き合わなければならない。それからやることはたくさんある。分類学という研究の理論的な背景をしっかり勉強し、自分の研究の正当性を堂々と言えるようになることがまず一つ。そして、自分の分類学的研究を生物学のなかでしっかり位置づけるような仕事をすることである。またmahoro_sさんのおっしゃるような、「誠実に自分のワクワクを伝え」るような研究紹介も重要であろう。むろん、コツコツと枚挙的な仕事を続けることは大切であり、それが分類学という研究の本来の姿であろう。その点でこのような「武装」に時間をかけることは本末の転倒になりかねないが、「武装」を「+α」を考え、分類学に対する負の印象に対して何らかの働きかけを行うことは、結果として研究者自身の利益にもつながる。私は多少ともこのような努力をしているつもりである。それを窮屈な「普及に関する努力」に代えたいと思っており、またそれなりの手ごたえも感じている。11月の3学会合同大会の講演では、このあたりを「昆虫分類学者のタマゴ」たちに訴えたいと思っている。
*追記:mahoro_sさん、いつも元気の出るご意見ありがとうございます。

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書き忘れたが、日曜は久々に糸島に釣りに出かけた。狙いはキスだったのだが、投げても投げても一瞬で餌が消える。おかしいと思って海底をじっと見てみたら、なんとカワハギの子供で港の中が埋め尽くされている。そこで狙い変更。袖針にイソメをつけてカワハギの子供を狙う。ところが、全然つれない。難しすぎる。モグモグと見る間に針だけ残して餌だけきれいに食べてしまう。試行錯誤の末、餌を引きずって焦らせるとパクっと食べることがわかり、なんとか釣れるようになった。それから前回タコが釣れていたので、足元にテンヤ(タコ専用の疑似餌)を落とすと、一瞬で釣れた。タコは賢い動物だが、賢いからこそ釣れてしまう。焦って針に飛びつくカワハギ、気になってテンヤに抱きつくタコ。人間でよかった。あ、人間も似たようなものか。