断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

どうでもよくないこと

生物の学名は私たち分類学者には特別なものである。そして、その発音について、生き物に関わる人たちの間では、「こだわり派」と「自由に読めばいい派」や「どうでもいい派」に分けられる傾向にある。私はもちろん「こだわり派」であり、自由派やどうでも派とは相入れない。かといってそれらの人たちに意見をしようとは思わない。関心のない人への意見や議論は無駄だからである。たとえば植物の流通名が学名のカタカナ読みである場合、多くは不規則でめちゃくちゃだが、それについて文句を言おうとも思わない。

学問とは自分で学んで、自分だけで知識を反芻して楽しむのが本来のかたちである。逆に、自由派やどうでも派が、「テキトーにすべきだ」「こだわるのはおかしい」などと他人に解くのも間違っている。これまでの経験上、それらの人たちはほとんどの場合、単純に学名や語学に関して無知であり、そのような立場で何かを意見することはできないからである。「知らないくせに意見したがる人」「知らないから否定する人」、逆に「知ってるから言いたい人」というのはどこにでもいて、必ず無駄な対立を生む。どんな世界でも、あるものにこだわりがある人とそうでない人は、互いの立場を尊重しつつ、片方は自らの無知無関心を認め、そのことについては一切の関わりを持たないのが平和な姿である。

さて、そもそも学名の発音とは何か。基本は古典ラテン語の発音だろう。英語園、特にアメリカでは、英語式の規則的な発音方法がある。それ以外の国で、ローマ字を母語に用いている人々は、その言語の発音に近い発音をしていることもある。しかし、東欧の研究者などはかなりラテン語を意識して発音しているし、もともと中立的な言語として学名にラテン語が使われるのだから、われわれ日本語を母語とする者もラテン語を意識するのが自然のように思える。もちろん、ラテン語の発音の教科書はあれど、それを学ぶのは容易ではない。カタカナ表記にも限界はある。ラテン語化された固有名詞はどうしようか。でも、そういうことを含めて面白いのである。

ここまで読んで、やはりどうでも良いと思った人もいるかもしれない。たしかにこんなことが学問的に高い価値を持つとも思えない。しかし、どうでもいいことに対して、どうでもいいと思いつつも、ついつい熱心に調べてしまうのが、趣味や学問の楽しみというものである。つまらないこだわりこそ真骨頂なのである。もちろん、われわれのように分類学を学ぶものは、ラテン語を語学として最低限学ぶ必要がある。語学の習得に発音を無視することは決してありえない。だから学問として学名を学ぶならば、発音へのこだわりは自然の成り行きなのである。