断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

父の死

昨年の10月に父が死んだ。77歳だった。

11年前に奄美大島の南に近接する加計呂麻島に移住し、まさに悠々自適に暮らしていたところ、数年前に大腸癌が見つかった。手術は成功し、その後、こまめに検査を受けていたが、昨年の初めに肺へ転移していたことが発覚した。時すでに遅しで、手術も抗癌剤治療もできる状態ではなく、余命10カ月と告げられた。

昭和16年、父は疎開先で祖母の実家である千葉県の大網で生まれた。戦後しばらくして丸山家のある東京に戻り、東京で育った。祖父は職業軍人で、父の名の「勲夫」の由来は言わずもがなである。戦後、祖父はつぶしがきかず、仕事に困り、丸山家は随分とお金に苦労したようだ。そしてその祖父も56歳で若死し、父は大学を途中でやめて、まだ子供だった叔父と叔母を祖母とともに育てた。

父は大学中退後に家電会社に就職。しかし、サラリーマンは合わなかったのだろう。それからは飲食店を中心に商売をしていたようだ。私が子供の頃は竹橋で喫茶店をやっていて、夏と冬に従業員の社員旅行があって、それについていくのが楽しみだった。最後に長くやったのは、エアコン取り付けなどの設備工事で、60歳半ばで引退した。

生き物が好きで、老後もいろんな生き物を飼っていた。加計呂麻島でも磯で魚貝を採ったり、柑橘類や野菜を作るのが楽しみだったようだ。

余命幾ばくもないとわかって、父は加計呂麻島の家を引き払い、東京に戻ってきた。男親と息子とのよくある関係で、あまり会話はなかったが、私はできるだけ東京の実家に帰った。江戸っ子気質で何事も潔い父は、運命だから仕方ないと諦め、ゆったりとした時間を過ごしていた、

夏ごろにはかなり悪くなり、科博の昆虫展を見せてやることができなかったのは残念だった。肺癌はかなりの痛みを伴うそうで、鎮痛剤の投薬量も日に日に増えて行ったが、一切の泣き言は言わなかった。

秋になると譫妄(せんもう)という痴呆に似た症状が出てきて、昼夜逆転して母を困らせた。ある朝、母が前の晩の様子を話すと、父は大声で泣きながら「すみませんでした」と謝ったという。

10代で社会に放り出され、弟と妹を育てつつ、一人でなんでもしてきた父にとって、言うことの利かない体で迷惑をかけるのが心底情けなかったに違いない。そんな風に弱ってしまった父を見て、悲しみとともに、父がもうすぐ死ぬという実感がようやくわいてきた。

とにかく愚痴や泣き言を言わない父であったが、死ぬ直前に子供の頃に苦労した思い出を母に話したそうだ。それからさらに譫妄が進み、病院に入ったあと、数日して息を引き取った。

父の死を前にして、自分の死についても考える機会が多くなった。近親者の寿命を考えると、私もあと30-40年がせいぜいだろう。最近はとにかく忙しく、自分の研究時間さえなかなか取れない。残された時間のことを考えて毎日を過ごしたいと思った。