断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

学名の献名について

学名の付け方に対する考えは人それぞれだがど、私は第一発見者の名前の学名を付けるのが基本で、その人の学名を既に他でつけたとか、共著になっているとか、あるいは同時期に他にたくさんの採集者がいる場合には、地名とか形態とか地名から付けたいと思っている。採集の貢献はとても大きく、献名は大切な行為だと思う。

もちろん、生物は誰のものでもない自然物であるから、本当はその特徴を示すものが最も適切であり、本当に的を得た表現であれば、利用者にとっても多少とも使いやすい学名となるであろう(本当に説明的であればば途轍もなく長い学名となるだろうけど)。しかしそれは理想論である。

「学名に自分の名前が付く」というのは、なんとも夢のあることではないだろうか。少なくとも幼いころから学名に触れてきた人にとって、実現すればうれしいはずである。もちろん全員がそうであるとは限らないが、うれしいと思う人がいる限り、そのような人の存在が想像できる限り、献名という行為は続くであろう。

私の場合、標本は研究に使いたい人にどんどんと差し上げる主義である。その際、「新種であれば自分の名前がつくかもしれない」という淡い期待は必ずある。実際、そうしてたくさんの種にmaruyamaiを付けていただいた。それが次の調査で自分の専門外の虫を捕り、面倒な標本作成を行う動機にもなった。専門外の虫を採集する人では、同じように思っている人は多いと思われる。おそらく献名という行為の存在がなければ、生物の多様性の解明は、とくに在野の収集家が多い昆虫では、かなり遅れたのではないかと想像できる。

ちなみに、採集した人だけでなく、その標本を管理する博物館の研究者の名前がつくことも多いし、私も付けたことがある。標本管理というのは大変な仕事であり、それだけの意味があることである。その他、亡くなった研究者を偲んだり、逆にお祝いをしたりなど、献名にはいろいろな場合がある。

ただし、自分で自分の名前を付けることはない。通常、献名は名誉や感謝として行うものであり、決して自分にはしないと考えるのが普通である。そもそも、自分で書いた論文の謝辞に自分の名前を載せないように、論文という体裁で新種を発表する以上、なかなか「技術的に」やりようのない行為なのである。

ところが最近、それをやってのけた研究者がいた。驚愕する人が多かったが、それが国際誌に載ってしまった。どういう経緯なのか、気になるところではあるが、生物の命名には命名規約(動物では「国際動物命名規約」)というものがあって、そこでダメだと言われているわけではないし、それが無効になるということでもないので、査読者があえて指摘しなかったということかもしれない。

 こういう話をすると、「だったらいいじゃないか」という人が必ず出現する。しかし、200年以上の分類学の歴史のなかで、生物が何百万種と記載され、何万という研究者が関わってきたなかで、誰もやらなかったという事実に意味がないとでも思うのだろうか。先述の命名規約では、最低限のルールが守られれば、新種は発表できてしまう。ほとんどの内容は勧告に基づく紳士協定のようなもので、多くの研究者はそれを守って生物の多様性解明が進んできた。その背景には標本の貸し借りなどの細かいマナーやさきほどの献名のような文化もある。そのなかで「自分の名前を自分では学名につけない」というのが当たり前の道徳として受け継がれてきたのである。