断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

今日も朝5時に(起きたくないのに目が覚めて)起きて、原稿に手を着ける。
気分転換に、昨日読んだ吉田修一の「日曜日たち (講談社文庫)」がとても面白く、2回目を読み始めたりもした。このごろは伊坂幸太郎が気に入って全部読んでみたのだが(といっても大した冊数ではない)、青少年向けというか、どうもさわやか過ぎるきらいがあり、すごく面白いことは確かなのだが、もの足りないものがあった。伊坂とほぼ同世代の作家として、吉田修一はその点「現実的」で、私には共感できる。
8時に山本君と朝マックするが、すでに飽きてしまって、明日からはやめようという話しになった。
9時半にホテルを出る。10時に博物館に到着のつもりが、バスを間違えて、バイパスに乗ってはるか北のほうまで行ってしまい、2回乗り換えてようやく11時過ぎに博物館に到着した。
入り口でマーガレットさんにお会いし、早速入館者パスを作っていただく。私のは5年前のデータが残っていて、そのまま印刷するだけだった。写真が若くて驚いた。
アルさんにご挨拶し、収蔵庫の一部に場所と顕微鏡をいただいた。それからアルコール、苛性カリなどの薬品を整えたり、顕微鏡を組み立てたりして、昼過ぎから標本調査を開始した。
今日は解剖道具の一つが準備できなかったのと、いきなり解剖と絵描きもなんなので、標本の写真撮影を進めた。それでも緊張を要する作業であり、時間をかけて体調を整えておいた甲斐があった。


残念だったのは、いくつかの標本がロシア人や韓国人に借り出されていたこと。完璧なレヴューにしたかったのに、少し残念。
作業の合間に、学生のデーブや、日本人で化石標本作製師の新谷明子さんと挨拶や長話をした。新谷さんは10月に日本に帰り、兵庫県博で講演するという。恐竜の研究がしたくて渡米し、その夢をかなえた日本人というのはすごいので、きっと面白い講演になると思う。しかし当の新谷さんは日本語が心配だと言っていた。(新谷さんは大学卒業後に渡米し、学部からやりなおし、修士を出て化石標本作製師になった。15年以上アメリカにいて、日本語がかなりわからなくなってしまったという。)
夕飯はスーパーで総菜を買って山本君の部屋で食べた。私はブロッコリーのサラダを買ったのだが、なんとブロッコリーが生だった。食べ終わるまでに顎が疲れた。