断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

秘密の暴力装置

殺したいだとか、死にたいだとか、負の意思を持った時点で、実行したも同じだという宗教的な考えがある。そういう考えには、「意思を実行するか否かは些細な差である」という前提がある。しかし、「実行するとしないでは天と地の差だ」という考え方もあり、わたしもそう思うし、やっぱりどう考えてもそうだ。だからどんな不穏なことも、思うだけなら自由なはずだ。だがやはり、思い続けていると、「ボタンを押すだけ」みたいな、なんらかのお膳立てがあると、思っていない人よりは容易に実行してしまうかもしれず、やっぱり思うというのもなんらかの潜在的危険性をはらんでいるのかもしれない。さてこれからの梅雨の時期、わたしが一番殺意を覚えるのは、傘を水平に持って歩いている人である。特にその人の後方に傘の先端部が来ていると、怖くて後ろを歩けない。実はわたしは先端恐怖症で、かなり遠くにそういう人を認めるだけで、ひーっ!となってしまう。この腹立ちは先端恐怖症の人にしかわからないし、子供が歩いていたら危ないだろうという怒りも覚える。もし私が無法者なら、どうするだろうかと想像する。まずは日本刀を持ち歩き、傘を水平に持っている人を探す。そして見つけるやいなや、その傘を真っ二つにしたい。あるいはヤクザみたいに肩で風を切って歩き、傘を取り上げて、持ち方が違うんだよと声を荒げて注意したい。結局はそんなことをできるはずもなく、想像だけをして怒りを和らげるほかない。