断虫亭日乗

過ぎ去る日々の思い出をつづるだけ

私の作文放浪

高校生くらいから文章を書くのが好きで、懸賞作文のようなものに何度か出したこともあった。大学受験のときには後期試験に小論文が予定されていたので、駿台予備校の小論文と英文翻訳の模試を受けたが、とくに誰からの指導も受けず、良い成績だった。それで、文章を書くのが得意なつもりになっていたのだが、その鼻をへし折る事件があった。

大学院に入ったころ、現在も写真家として活躍する永幡嘉之さんに出会い、その当時、永幡さんが出していたミニコミ誌を読んで、その文章の上手さに打ちのめされたのだった。もちろん、著名な作家の作品はかなり読んでいて、それらの文章は特別なものとして知っていた。しかし、同じ世代で虫を語る人にそのような卓越した文章力をもつ人がいることに心底驚いた。そして、これくらい上手い文章が書けるようになりたいと強く思った。研究論文を書くにしても、それらを普及啓発するにしても、文章力は必要だし、なによりも山ほどの小説を読んでいたので、純粋に上手い文章を書くということに憧れた。

しかし、修士課程から博士課程にかけては、研究に忙しく、日本語で作文をする機会というのは、あまりなかった。学部時代に千葉県佐倉市の昆虫相を調べていて、修士課程の間にその報告書を書いたのと、日本学術振興会の特別研究員の応募くらいしかなかった。また、先輩や先生に文章を読んでもらい、添削を受けるという作業で、高校時代までの自由な作文とは性質の違う文章を書かなければならないという現実を知り、いずれも直しては書いているうちに自分が何を言いたいのかわからなくなってしまったのを覚えている。

博士課程にいたときは、ほとんど研究室と自宅の往復の毎日だったが、自宅では現実逃避のようにさらに膨大な小説や一般書を読んだ。毎週3冊程度は読み進めていたので、数百冊は読んだだろう。今になって思えば、文章が上手くなりたいという渇望、人に直されるという経験、そしてたくさんの読書が血となり肉となっていったと思う。

大学院を卒業してから、国立科学博物館ポスドクとして在籍したあたりから、文章を書く機会が増えた。昆虫と自然という雑誌に何度か記事を書かせてもらったり、最終年には「森と水辺の甲虫誌」という本を編著で書かせてもらった。その時に科博の受け入れ研究者だった野村さんに言われた言葉はいまでも焼きついている。

「文章は歳をとるほどだいたい上手くなる。若い人の文章はそれなりだ」

ということである。そのとき、自分の文章力に限界を感じていた自分には、この言葉が胸に刺さった。そして「歳をとる」という意味がよくわかるような気がした。虫を趣味とする人は何かしらの文章を雑誌に寄稿する人が多く、先輩方の文章のなかには実に味わい深いものがよくある。「月刊むし」という雑誌にはそういう面白い文章が多く、先述の永幡さんも連載をしていて、ますます文章に磨きがかかっていた。

ちょうどその頃、このブログを始めた。科博の実験室に山口典之さん(現長崎大学)がいて、その方がやっていたのを見て影響を受けた。ほぼ毎日書いていたが、結果としてこれが良い練習になった。やはり常に書いていないと上手くならないのだ。またポスドクになってから、誰が見ても完璧な学会発表を心がけるようになり、その際にしっかりと台詞を作ったのだが、これも他人に物事を説明するための文章力につながった。

その後さらに大きな転機があった。東海大学出版部の稲さんから、こんどフィールドの生物学というシリーズの本を出すので、何か書かないかと声をかけていただいたのだった。『アリの巣をめぐる冒険』という自分の研究史のような本を書いたのだが、これには1年以上の時間を費やした。そして、この執筆で何か一つの壁を乗り越えた気がした。

ただ、同世代の研究者で拔群に上手い人もいて、そういう人の文章を読むと、自分の文章もまだまだだと思う。とくに上手いと思うのは、クマムシの堀川大樹さん、バッタの前野ウルド浩太郎さんで、どちらも個性的で面白い文章を書くが、共通するのは読者の目線に立って、読んでいて意味のわからない部分をつくらない徹底した親切さである。

世の中には頭のいい研究者はたくさんいるが、普及啓発においてそういう文章を書ける人はとても少ない。これは意見が分かれるかもしれないが、日本語と言うのはそもそも曖昧な設計になっていて、完璧な論理性や情報量を追及すると、どうしても読みにくい文章になってしまう。さきほどの親切さのなかには、程よい論理性の強弱、さらには情報量に担保される正確性に固執せず、読者がそこまで求めていない情報を上手く削除するという能力がある。詳しい分析をするときりがないが、とにかく普通の人が読みやすい文章を書くというのは、並大抵のことではない。そのための意識的な訓練と日ごろの読書が重要なのではないかと思う。